「芸術点」って何だ?  981201  No.18
 
天野 : 「スポーツの採点方法にも色々あるけど、シンクロナイズド・スイミングやフィギュア・スケートの「芸術点」ってやつ。現在のフィギュアとかじゃ「(演技)構成点」と言うようだけど、動作、振り付け、解釈なんてのが入りけっきょく同じ。あれはわからねえよな。疑問に思ってる人多いんじゃねえかなあ。」

記者 : 「そうですねえ。基準がわかりませんからねえ。」

天野 : 「技術的に難しいとされる演技がどの程度出来たかで競うのであれば、要するに技術点だけであれば、ある程度の差はあっても審判員に選ばれる程の人たちなら、だいたい客観的に見られると思うんだよな。
ところが芸術点となるとさあ、何をもって芸術的評価を下すかなんてほんとに出来てるのかなあ?。客観的判断基準なんてどう定義するんだよ。
仮に個人的尺度で芸術性を判断するんだったら審判員なんていらねえじゃん。芸術感なんて個人個人でみんな違うわけだしさあ、そんな身勝手とも思える採点で競技の勝敗を決めちゃっていいのかよ?。それって単なる好き嫌いじゃねえか。
どちらにしてもおかしいと思わねえかなあ。」

記者 : 「まあそうですよねえ。個人的にその演技が好きか嫌いかっていう判断になっちゃいますよねえ。」

天野 : 「だろ。
実際に携わってる人には大変失礼な言い方かもしれないけど、だいたいショー的要素の強い競技にこの種の採点法が多いよな。
それにシンクロもフィギュアも欧米で発達した競技だから採点者も当然欧米人が多い。その欧米人に対して、たとえば東洋的(日本的)芸術性を前面に出して演技をしても、「何じゃありゃ」で終わちゃったりしてね。けっきょく思いっきり笑顔を振りまいて表情作ってさあ、欧米的なオーバーアクションの演技でないとダメで、日本的な「わびさび」や「静」の演技ではみんな予選落ちだったりして。もしそうだとしたら、そんな民族的価値観を一方的に押しつけるような採点方法を国際競技会に持ち込んでいいのかよ。
スポーツばかりでなく政治、経済、芸術、人権、思想など、現在のあらゆる考え方は欧米文化に、もっと言えばキリスト教文化に支配されてる訳で、東洋あるいはイスラムやアフリカ諸国など、国際舞台では半ば強制的にそれに従属するよう仕向けられてると言っていい。国連やIMFなどの問題解決方法はアジアや第3世界から見れば、ほとんど元支配国であった欧米的文化基準がまるで世界唯一の共通項であるかのようにやっちゃう。まあ欧米諸国の世界支配は今更昨日今日に始まったことじゃないけどね。
けっきょく日本から国際スポーツとなった柔道なんか、クラス分けも採点基準もユニホーム(柔道着)も、多数を誇る欧米的考えに支配されていったことは日本人から見れば明らかだろ。今後世に出る(世界に出る)であろう剣道などの武道も、やがて日本的伝統を越えて欧米基準のスポーツとなっていくに違いない。現在世界に出るということはイコール欧米に出るということで、その世界に出た途端スポーツ自身の出身国に関係なく、欧米人に受け入れられるような競技や演技スタイルにしなければならないってことだよな。」

記者 : 「そういうことになっちゃうんでしょうねえ。」

天野 : 「まあ、この種の話では山ほど言いたいことがあるけどそれは別の機会に譲るとして話を戻そう。
だいたい「技術点だけじゃ味気ないよ」って言われるかも知れないけど、そもそもスポーツは鍛えた身体能力でゲームのルールに従って記録や点数を競うもので、そこに情緒的な芸術性を持ち込んじゃうのがおかしいんだよ。
更にフェミニスト的言い方をすればさあ、元々女性を中心としたスポーツにそういう採点方法をとるものが多いわけで、表現力を競うならスポーツ大会ではなく芸術祭としてやればいい。男から見れば演技の内容次第では好奇的対象になっちゃたりして、要するに芸術に名を借りた性差別的採点法とも受け取れるだろ。女性はこうあるべき、だから演技での芸術表現はこうだっていう価値観を、欧米的世界観の中で評価するというものだよな。人権にはうるさいはずの欧米文化の矛盾はこんな所にも現れてると思うけどねえ。
欧米の言う人権がいかにその裏で反人権的な行為を自分たちがやってきたかという、まさに裏返しの現れだよな。インカを滅ぼし、イヌイット(インディアン)を追い払い、植民地支配を広げ、奴隷買い付けを行い、よく言うよって。
またちょっと脱線したけどとにかく、時間(スピード)や得点で争う陸上やボールゲームなら数字という、誰もが納得せざるを得ない結果として残るけど、この手の採点競技にはすこぶる怪しいのが多いだろ。審判員の中で最高点と最低点をカットするなんてさあ、そもそも怪しいと当事者も思ってんじゃねえのか?。そういう競技にはみんな芸術性がつきまとってるじゃねえか。
何でそんなことを「ハイ、そうですか」ってみんな受け入れちゃうのかなあ?。それがスポーツ文化だってみんな納得しちゃってんのかなあ?。」

記者 : 「どうなんでしょう?。」

天野 : 「それと長野五輪でも話題になったスキーのジャンプ。あれにも飛形点(こういう漢字でいいのかな?)っていうのがあるけど、やっぱり不思議な採点だと思ってずっと見てたよな。」

記者 : 「えっ、そうですか?。別に不思議に思わなかったけど。」

天野 : 「漫然と見てるから。」

記者 : 「すいません」

天野 : 「正確な解釈はわからないんで、まったく的外れのことかも知れないけど、それを前提に言わせてもらえれば・・・・。」

記者 : 「あっ、はい、どうぞ。」

天野 : 「飛形点てのは要するに、ジャンプ中の空中姿勢と着地前後のテレマーク姿勢がうまく出来たかだよな。意味からすれば本来ジャンプの大きさとは関係ないはずで、たとえ距離は出なくても飛形点に高得点があってもおかしくない。ところが結果を見てみるとほとんど飛んだ距離に比例して飛形点も出ている傾向がはっきりとある。
つまり距離が出た、だから飛形もよかった(だろう)という相関関係が歴然としてあるんだよな。
たとえばラージヒル(90m級)で同じような空中姿勢で同じようにテレマークをしても、かたや90mしか飛べなかった選手と120m飛んだ選手では大きく飛形点にも差が生じてることが多い。まったくきれいな姿勢で飛んでテレマークも入れたのに、90mしか飛べなかった選手はかなり点数が低いんだよ。対してスキーや身体をグラグラ揺らしてでも距離を出せた選手は、どう見ても飛形という意味ではきれいじゃないのに点の高い傾向がはっきりある。
姿勢を評価するんだったらおかしいと思うんだよな。揺れたのは風をしのぐためだってそれも技術だって言われたってさあ、屋外スポーツならそんな自然の影響なんて付きものじゃん。そういった運も左右するからこそドラマが生まれるし、見る側だって興奮するんだよ。風に押し戻されたからって外野フライが審判団の協議の末ホームランになるか?。芸術点とは別の意味で採点基準がどうなってるのか知りたいところだよな。
だったらさあ、途中の姿勢やテレマークはどうあれとにかく距離を稼いだ人が勝ち、っていうふうにした方がよほどスポーツらしい。せっかく距離という数字が出ているのにどうして飛形なんていうあやふやなものを持ち込んじゃうわけ?。
陸上の跳躍競技で飛形点なんてのがあったらおかしいだろ。走り幅跳びで9m跳んだけど、飛形が美しくなかったから記録としては8.5mです。走り高飛びで2.5m跳んだけど、着地が尻餅だったから記録は2.3mです。
そりゃおかしいだろ!いくら飛んだか、これがすべてでいい。」

記者 : 「そういうふうに見てましたか。でも確かに言われてみればわかるような気はしますね。」

天野 : 「まあ、俺が何言ったところで変わらないことはわかってるけどね。」

記者 : 「だから「人の耳に念仏」ですもんね。」
 
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