素朴な疑問   まあ、専門家に聞けば分かるんだけどね・・・・


001101  11.イエローバルブと横長TV

自然の情景も人工的な構造物も世に有る様々な景色や物は、自然光によって映し出されるそのもの本来の色合いで、ありのままの姿・形として見たい。
(自然光とは何だ?本来の色合いとは何だ?ありのままとは何だ?との問いは置いといて)
芸術や写真なら話は別だが、普通に見るものは強調すること無く、さりとて省略することも無く、緑の物は緑に、赤い物は赤く、四角い物は四角に、丸い物は丸く見たい。
と、私は思う・・・・

一時若者向けの車のヘッドライトに「イエローバルブ」なるものが流行った。
最近は眼鏡で「カラーレンズ」なるものが流行ってるらしい。
そのライトまたはレンズ越しに見える景色は、当然色づけされたものとなる。
イエローバルブに照らされるとすれば、緑の物は黄緑に、赤い物は朱に見えるだろうか?

初期のカラーTVにおける標準設定は、「これぞカラーだ」と言わんばかりに酷くどぎつい色づけが目立っていた。
現在でも標準設定ではかなり彩度(色の鮮やかさ)が高く、私にはどぎついと感じる場合が多い。
もちろん(好みの)個人差も多いに関係するだろうし、色覚やディスプレイの性能差を言ってる訳でもない。
あくまで主観である。

横長TVが家電メーカの戦略もあり、ずいぶん出回ってきた。
それ自身悪いとは思わないが、「通常画面を横長にして平気で見ている人」が実に多いことに私は驚きを隠せない。
アスペクト比(横・縦比)4:3の画面を16:9に歪めて平気で見ているのである。
こちらは色ではなく形そのものを歪めて見ているのだ。
スレンダーな人が小太りに見える。
鋭い岩峰がどっしりした岩峰に見えるのである。
映像そのものを歪める訳ではないが、ワイド写真もある種歪めた映像と言えなくもない。
ワイド写真は広角レンズで撮った写真の上下を切り取り、見かけ上の横長を強調しただけの錯覚写真ではないか。

色を変え形を変え、どうしてみんな平気なんだろう?
私にはまったく理解できない。
緑の物は緑に、赤い物は赤く、四角い物は四角に、丸い物は丸く見たいのである。

 

000912  10.郵便最後の日?

「郵便って何?」っていう日が10年以内にやって来る。

「はがき」&「封書」の類は姿を消す運命にある。
バイクで駆け回る郵便配達も消える。
もはや人出を使う業態は、たとえ公共機関と言えども生き残るのが辛くなる。
少なくなった郵便は料金も跳ね上がり、益々縁遠くなること必至。
一部の特殊な、そしてどうしても対面で届けたいもの(果たして何だろう?)以外使用されなくなる。
むしろ10年後に貰える郵便は「伝統的親書」として、極めて珍妙且つ貴重な存在となるかもしれない。

替わって情報伝達手段としてEメールに代表される「電子的手段」が天下を取る。
何しろ個人間はもちろん業務上でも、情報伝達手段として格段に安価&高速である。
キーボードや携帯電話のボタンを叩くなどという作業は、もはや専門家以外覚える必要のない作業となる。
マウスも消える運命にあり、替わって指先などの動きを三次元的に捕らえ指示する。
もちろんその頃には音声入力も当たり前。
携帯端末に向かって話すことにより送受信は言うに及ばず、文書も音声(音楽)も画像も動画も自由である。
使い方など心配する必要も無ければ、いわゆるパソコン教室の類も姿を消す。
分からなければパソコン(正確にはパソコンという形態も消えると思うが)に問えばよく、真の意味で対話型パソコンが実現するだろう。
郵便・電報はほぼ完全に駆逐され、FAXも消える。
電話(現在の姿をした)さえ多くは淘汰の対象となり、従来のアナログ電話は急激な短期低落傾向となる。

郵便全体のかなりを占めるであろうDM業者にとってもメリットは少なくない。
いつでも勝手に、時に大量のメールを不特定多数に一気に送る、などという使用法としてのメリットは郵便・電話とは比較にならない。
反面、ユーザー側の設定により拒否されることも多くなるだろう。
これは言い換えれば無駄なDMも無くなる訳で、業者にとってはむしろメリットである。

郵便は返答がなければ、内容が相手に伝わったかどうか確認できない。
電話もまた相手が居なければ始まらない。
いわゆる留守電はEメールまたはボイスメールに替わり、事実上淘汰される運命にある。
Eメールを代表とするこれらすべての電子的手段は暗号処理や声紋認識により、送受双方で個人識別が容易となる。
それは実際に本人が受け取ったかどうか確認できることも示し、登録した本人以外は操作さえできないのである。
個人アドレスはほぼ全国民に行き渡り、好むと好まざるとに関わらずネット社会に組み込まれることとなる。

さて、っとなると問題はセキュリティなのだが・・・・???
私に才能があればその分野に乗り出したのに・・・・(/_;)

で、他人事ながら、郵便事業ってどうなっちゃうの?

 

000725  9.ボーダーライン

車やバイクの運転免許を取ろうとした時、学科試験は90点以上でなければならない。
対して、なぜかほとんどの国家試験は一律60点がボーダーラインである。
逆に言うとその資格の内容に係わらず、ギリギリ40%はその時点で間違っても(知らなくても)OKなのだ。
後は現場で鍛錬してくれ、ということなのだろうか?

もちろん、試験の困難さは千差万別、ピンからキリまで。
キリを原付バイクあたりとすればピンは医師国家試験や司法試験あたりになるだろう。
原付と医師や司法試験を一緒に比較されちゃーねえ、との意見が出ようことは容易に想像がつく。
確かにその困難さ加減からすれば、ボーダーラインだけを指して論じるのは危険かもしれない。
がしかし、前述に関しては共通点もある。
その気になればどちらも簡単に人を殺せる資格でもあるのだ。

私の主観だが先の医師&司法試験などは、嫌らしい?難問でフルイにかけるより、基礎的な問題でいいからボーダーラインを運転免許並に引き上げてほしい。
ましてその種の人達は営業開始となれば人から頼りにされ、時に命を預けるかもしれない仕事である。
試験で人間的魅力や適性を判断することは難しいだろうが、どうも難問奇問を解く頭からは我々一般人が持つ感覚とのズレを感じざるを得ない。
それはいわゆる上級国家公務員試験も同じである。
たとえ表に出さなくても、やはり彼らはエリート意識を持ってるだろう。
それ自身必ずしも悪いとは思わないが、その意識の現れが難問を解く試験の困難さも一因となっているとしたら、やはりちょっと問題を感じてしまうのである。
かと言って庶民感覚がいつも大局的に正しいとはもちろん言えない。
同じ困難さなら、基礎をガッチリ固めてほしいのである。
その上で応用例を磨いてもらおうではないか。

まあ、「そりゃおまえのコンプレックスじゃねえか」と言ってしまえば終わっちゃいそうな話ではあるのだが。

 

000615  8.政治家はセンセー?

政治家を最初に「センセー」と呼んだバカは誰?
バカな大人は犬が主人に媚びてるように、公の場で「センセー、センセー」の連呼である。
今まさに衆議院選の真っ直中、あっちこっちで大バカ増殖中。
どっちが主従かも区別の付かない大バカども。
その点、当の政治家はハシッコイ。
25日まではとにかく、ただただひたすらm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m

今の世は何でもセンセー・センセー。
実際、辞書を引いてみるとその意味でかなり多くの例を挙げてもいるようだ。
専門分野を教える人はすべてセンセーということらしい。
弁護士、弁理士、会計士などなど、どうも「士」が付く職業の人々に多い。
しかし、悪いが私はそれらの方々を先生とは呼ばない。
もちろんそういう方々にこちらから色々お願いすることもあるのだが、同時に向こうにとって私はお客さんである。
まあ、それを言ったら教師や医師だって同じく、なのだが。

そこで、政治家である。
特にその中でも(あくまで一般論としてだが)、政治家として頂点に属する衆議院議員は代議士とも言われるのは承知の通り。
そう代議士である。
ここでも「士」が付く。
代議士は「国民の意見を表して国政を論する」ということだろう。
あくまで代表者である。
どうも私たちに教えを授ける仕事ではないようだ。

普通に考えれば、当人の秘書や書生が主人を指して「センセー」と呼んだのが始まりかと思われる。
やがて、なぜか一般でもそう呼ぶように祭り上げちゃった訳だが、要するに「センセー」とは大変都合のいい敬称だったのだろう。
私の中で先生と呼べるのは、学校の教師と趣味や教養の分野で教えてる人、それに医師くらいにしか当てはまらない敬称だと思っている。

あっそうそう、「センセー」という言葉の陰には軽蔑・侮蔑の意味が含まれることもあるよねえ〜・・・・
ねえ、センセー。

 

000605  7.義理とお返し

現代日本にさえ伝統的に蔓延る悪習、と、あえて言わせてもらおう。
疑問とするのは後者「お返し」である。

ある友人、又は親戚が病気やケガで入院したとする。
もちろん親しい関係であれば大変心配であり、その事実を知れば誰言われるまでもなく自然にお見舞いに出掛けることだろう。
気持ちを表すため、多少の物品やお金を包むことも極普通の行為かもしれない。
ここまでは良しとしよう。

ところが「快気祝い」なるお返しは、まだ病後回復途上の本人、そして精神的に相応の疲れも感じてるであろう家族に、過大な負担をなお要求する(場合がある)のである。

お見舞いは、「多対一」である。
しかし、お返しは、「一対多」なのだ。
お見舞いはたとえ30人いても100人いても、贈る側にしてみれば対象は常に入院した本人一人である。
しかしお返しはその一人、又は1家族で30人・100人を相手にしなければならない。
時には住所や電話番号を確認し(必ずしも分かってる人ばかりじゃないだろう)、時には実際に出掛けなければならないのだ。
しかもお返しが無かろうものなら、義理を欠いたとまるで悪人のように陰口を言われかねないのである。

こんな理不尽な悪習は無いではないか。
素朴な、の域を越えたまったくの疑問である。
気持ちの上でのお返しをどうしてもというなら、せいぜい電話かハガキ1枚の快気報告で十分である(それだってけっこうな手間になりうるのだが)。

↑の例は一例であるが、冠婚葬祭関連などこの手の悪習が何と多いことか。
こちらの行いが相手の負担となるような慣習は即刻改めるべきである。

 

000401  6.キープレフト?

自動車教習所では今でもキープレフトを指導しているんだろうか?
優良運転者(←ウソつけ!)の私は、免許の更新時講習もビデオくらいしか見てないのでちょっと分からない。
とは言え必ずしも初心者とは限らないだろうが、見通しの悪い道なのに異常なほど道路左に寄って、ほとんど路肩スレスレを走る車にもけっこう遭遇する。

車を運転する時怖いのは対向車ではない。
何より怖いのは道路左から飛び出すかもしれない歩行者(特に子供)や二輪車である。
当然相手は生身の人間であり、事故った時の結果も対向車との衝突より深刻な場合が多いだろう。
日本の道の多くはアメリカほどに広くはない。見通しよく家々に芝生の広がる庭もない。
住宅街は一般に建て込み、道の左右ともブラインドだらけ。
たとえ郊外の家でも道路すぐ脇まで迫る生け垣や、ブロック塀などに囲まれる方が普通。
見通しは悪く、歩道があるのは贔屓目に見ても道路全体の精々数%。
それもほとんど市街地に限られる。

少なくても対向車とは文字通り向き合って、対向している訳である。
たとえ相手が脇見運転をしていても、普通に前を見ている時間と比べればその長さはむしろ例外的である。
もちろんどちらかのドライバーが普通に運転してる限りにおいて、危険を感じればクラクションで知らせることも、何らかの回避操作も可能であろう。
相対速度は高くても、相手が見えているという安心感も同様に高い。
対して歩行者にしろ自転車にしろ(もちろん車やバイクも)、ブラインドの左から突然飛び出されたらどうだろうか?。

私はキープライトである。運転するときは車でもバイクでも。
見通し良く安全の確認できる郊外の道や、崖や法面で飛び出しは無いと思える場所なら別だが、普通はセンターライン寄りに走る。(もっともあらためてレフト・ライトと言うほどの道幅さえ無いのが日本の多くの道の現実だろうが)
何より怖い左からの飛び出しに対して、少しでも時間稼ぎと距離的優位性を保とうとしているのだ。
右からの飛び出しには2車線路であれば、初めから1車線分の距離的・時間的余裕がある。
対向車へは脅威とならないよう、すれ違う手前からちょっと左に避ければいい。

あっ、もっともキープレフトの人って、そもそも車幅感覚がないのかな?

 

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